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戊辰150周年特設ページ ”会津線×会津西街道”

旅の手引書~会津線と会津西街道~

 かつて、会津には会津五街道と呼ばれた街道がありました。江戸時代、その街道はいずれも経済や文化の通り道として会津の発展を支え、徳川幕府の親藩としての輝かしい栄光を、会津藩にもたらしました。
 会津線が走る南会津地域には、会津五街道の中の会津西街道という会津と江戸とを繋いだ街道がありました。安土桃山時代には奥州仕置きのため会津入りした豊臣秀吉が京への南下のため通過し、江戸時代には会津藩だけでなく、庄内藩、米沢藩などの参勤交代にも使われ、会津以北と江戸とを結ぶ重要な街道として活躍しました。
 そして幕末、会津に大きな発展をもたらした会津西街道は、新政府軍による会津藩攻撃のための侵攻ルートの一つとなります。
 戊辰戦争というと会津城籠城戦や飯盛山での悲劇など、市街地での戦闘が有名ですが、新政府軍が会津へと侵攻するために辿った道には、同じように深い歴史の爪痕が刻まれています。

街道を知ると歴史は面白くなる。

 会津鉄道では、そんな会津の歴史を支え、戊辰戦争の舞台ともなった会津西街道をご紹介します。いくつもの山がつらなり、自然深い街道沿いには、道行く人々を支えた宿場町の面影が随所に残っています。
 重層で多面的な会津をより深く知るきっかけに、会津鉄道から会津西街道の世界にふれてみてください。関東と会津を繋ぐ歴史の道を辿ってみれば、まったく新しい会津が見つかるかもしれません。

会津への道 古今位置関係図

 下記の図は現在の浅草駅から会津若松駅までの線路図と、当時の街道の位置関係を示した図です。
 こうして地図で眺めると、新政府軍と旧幕府勢の攻防にあたり、宇都宮城と今市宿が交通の要衝として激戦地となった理由が分かります。現在も宇都宮駅、下今市駅は複数路線が入線するターミナル駅となっています。

1.浅草駅〜会津若松駅

この区間は鉄道会社が4社にまたがっています。 ①東武鉄道(浅草駅〜新藤原駅) ②野岩鉄道(新藤原駅〜会津高原尾瀬口駅) ③会津鉄道(会津高原尾瀬口駅〜西若松駅) ④JR東日本(西若松駅〜会津若松駅)

2.東京都日本橋〜会津若松(大町四つ角)

この区間は江戸五街道の一つ、日光街道が日本橋から今市宿まで続きました。 今市宿より北が、会津西街道です。 ①日光街道(日本橋〜今市宿) ②会津西街道(今市宿〜大町四つ角)

時代背景①歴史の流れ

黒船の来航

 1853年、ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊(通称・黒船)が浦賀沖に現れます。アメリカは江戸幕府に開国を要求し、両者は翌1854年に日米和親条約を締結しました。これにより長かった鎖国体制は終焉し、激動の時代へと向かいます。

 外国からの刺激に対し、攘夷を旨とする者や、江戸幕府への不満をもつ者が京都に集結、尊王思想のもと討幕運動を展開します。これにより京都の治安は急激に悪化しました。1862年、治安維持のために幕府は京都守護職を設置し、会津藩主・松平容保がこれに就任することとなりました。

大政奉還から討幕へ

 会津藩は新選組や見廻組とともに京都の治安回復に尽力します。しかし、時代は薩英戦争、池田屋事件、禁門の変、馬関戦争、長州征伐と目まぐるしく変遷をかさね、複雑な世相をつくっていきます。

 1866年、公武合体を唱えていた薩摩藩が突如討幕に転身、討幕運動の中心だった長州藩と同盟を結びます(薩長同盟)。同年、幕府は第十五代将軍として徳川慶喜をたて、この難局に向かいます。

 1867年10月、武力討幕を目指す薩長両藩に対して徳川慶喜は大政奉還を奏上、公議政体論による新政権の樹立を目指します。しかし同年12月、あくまでも武力討幕を目指す薩長両藩は岩倉具視らとともに王政復古の大号令を発し、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言しました。これにより国内の緊張は一気に高まります。

江戸城無血開城から戊辰戦争へ

 1868年1月、江戸での混乱の後、京都にて鳥羽・伏見の戦いが開戦します。薩長を中心とする新政府軍と会津藩を中心とする旧幕府勢が交戦、新政府軍が勝利しました。

 京都での交戦の後、新政府は東征大総督を設置し、江戸城総攻撃を計画します。これに対し、徳川慶喜は勝海舟らと共に江戸城を無血開城し(1868年3月)、江戸での開戦を回避します。これにより新政府軍側の優位が決定的となりました。

 会津藩も新政府への恭順を示しましたが、いれられませんでした。やがて各地で戦闘がはじまります。会津藩は北日本の諸藩とともに奥羽越列藩同盟を結成、進撃する新政府軍にそなえることとなりました。

会津戦争

 戊辰戦争のうち、会津が舞台となった戦いを会津戦争と呼称します。

 重大な局面は多々ありましたが、そのうちの一つに宇都宮城の戦いがあげられます。当時の宇都宮は日光街道と奥州街道の行き交う交通の要衝であり、新政府にとって宇都宮城は会津攻撃における重要な軍事拠点でもありました。

 旧幕府勢は拠点奪取のため宇都宮城を攻撃しますが、二度の攻防戦ののちに撤退。戦線は会津西街道の入口である今市の宿へとうつっていきます。

時代背景②ポイント解説

会津藩とは?

 かつて、会津地域をおさめていた藩のことです。江戸時代には会津松平家が、徳川家の親藩としておよそ260年に渡り統治しました。
 会津松平家の初代藩主は保科正之です。徳川幕府第2代将軍・徳川秀忠の庶子であり、第3代将軍・徳川家光の異母弟にあたります。家光は正之を非常に信頼し、会津23万石の大名へ引き立てました。幕政においても第4代将軍・家綱の補佐役など、重要な役職を任せます。正之は徳川幕府に対して非常な恩義を感じ、家訓の第一に徳川家への忠誠を説きました(家訓15カ条)。
 1862年に京都守護職に就いた最後の藩主・松平容保は、当初は役職への就任を固辞しましたが、上記の家訓のため最終的には拝命、動乱の京都へと身を投じました。

戊辰戦争とは?

 明治維新という政治的・社会的変革のさなか、明治元年(西暦1868年)に新政府軍と旧徳川幕府勢のあいだでおこった戦いです。鳥羽・伏見の戦いから始まり、会津戦争、北越戦争などをへて、函館戦争にいたるまで日本中が舞台となりました。

会津西街道とは?

 現在の日光市から会津若松市を繋いだおよそ130kmの街道です。この時代、同じ街道に複数の呼称がありました。会津からの呼び名を下野街道、関東からの呼び名を会津西街道と呼びます。
 明治時代に現在の国道121号線の前身となる道路の整備にともない、主要街道としての機能は衰退していきます。会津線は会津西街道の近くに沿って走っています。

南山みなみやま御蔵入領おくらいりりょうとは?

 江戸時代、現在の南会津地域は幕府の直轄地(天領)で、南山御蔵入領と呼ばれていました。幕末は京都守護職への就任に対する役料として、南山御役地の名称で会津藩領に編入されました。

南会津地域の会津戦争

 南会津地域(南山御役地)の戦いは8月23日の会津若松城籠城戦の後に本格的に始まります。会津西街道では、8月28日に新政府軍が山王峠の横川にあった口留番所を突破します。その後は田島宿、大内宿と北上し、9月4日には本郷に到達、大内峠が破られます。
 しかし、9月8日より籠城戦の補給路確保のため会津藩士・佐川官兵衛ひきいる一隊が大内宿を奪還します。その後は広範囲に渡り地の利をいかしたゲリラ戦を展開し、南山各地の新政府軍を後退させました。9月22日の会津藩降伏後も戦いは続き、9月26日頃、降伏の知らせが届き南会津地域の戦いも終結します。

大町四つ角とは?

 会津五街道の会津側の起点となった場所です。会津若松の城下町は1590年に入封した蒲生氏郷によって整備されました。大町の四つ角は会津領内の中心点として、各地への距離が測られた場所です。この場所(会津若松市大町)には現在も「会津若松市道路元標」が立っています。

相の道と二つの峠

相の道図

 下記の図は日光街道と会津西街道の結節点、”相の道”を示した図です。 今市宿(現在の下今市駅付近)で両街道は合流します。この近辺は戊辰戦争の激戦地の一つとなりました。
 現在でも、下今市駅には会津方面、日光方面、浅草方面の列車が乗り入れています。 会津鉄道のAIZUマウントエクスプレス号は会津若松駅〜東武日光駅間を直通運転しています。 そのため、下今市駅ではスイッチバックし方向転換します。

山王峠・大内峠説明図

 下記の図は要衝である山王峠と大内峠の位置を説明した図です。
 現在でも山王峠は栃木県と福島県の県境にあたります。この峠を越えると会津盆地が近づきます。 また、大内峠を越えると盆地内に入り、以降は平地が続きます。この峠が最後の天険でした。
沿線史跡のご紹介

会津線から、会津鉄道のAIZUマウントエクスプレスが乗り入れる鬼怒川日光線までの沿線の史跡をご紹介します。今市宿(下今市駅)から会津へと北上していく戦線を追いかけ、歴史に思いをはせてみてください。AIZUマウントエクスプレスなら、下今市駅から会津若松駅まで、乗り換えなしで当時の雰囲気をお楽しみいただけます。

下今市駅

現在の栃木県日光市・下今市駅には今市宿がありました。会津西街道はこの今市宿が起点でした。江戸日本橋を起点とする日光街道との交点でもあり、交通の要衝でもありました。
そのため、宇都宮城の戦いののちに、今市の戦い(閏4月23日、5月6日)と呼ばれる大きな戦いがおこりました。大鳥圭介ひきいる伝習隊が、会津の山川大蔵ひきいる一隊とともに戦いにのぞみました。
各地には供養塔をはじめ、この戦いで犠牲になった方々のお墓や碑がたくさんあります。
下今市駅

相の道

下今市駅から徒歩10分。
会津西街道の起点の場所であり、日光街道と交わる箇所にあります。今市の戦いに敗れた旧幕府勢は関東から撤退を余儀なくされ、会津西街道の防衛へと向かいます。
相の道

鬼怒川公園駅

■詳細■ 鬼怒川公園駅

鬼怒川戊辰街道

鬼怒川公園駅から徒歩5分。
現在の栃木県日光市・鬼怒川エリアには江戸時代、藤原宿がおかれていました。
今市の戦いののち、旧幕府勢は藤原宿に本陣を置き、大原村の戦い(6月25日)や、小原沢の戦い(6月26日)にのぞみました。この戦いは旧幕府勢が勝利し、会津西街道の戦線は停滞します。現在は街道として整備され、慰霊碑や記念碑が建碑されています。
8月21日、母成峠(猪苗代町)から新政府軍が会津藩領へと進撃し、8月23日には会津若松城籠城戦がはじまりました。会津西街道の旧幕府勢は籠城戦に合わせ北上したため、会津西街道の新政府軍も会津藩領へと突入しました。
鬼怒川戊辰街道

新藤原駅

新藤原駅

湯西川温泉駅

湯西川温泉駅

中三依温泉駅

中三依温泉駅

上三依塩原温泉口

新政府軍は会津入りにあたり、藤原宿を避けて西側の峠を越えて迂回します。栗山村(現・湯西川温泉街)を経由し、8月25日に藤原宿の北にあたる五十里湖(湯西川駅付近)に到達します。そのまま北上し中三依宿に宿陣し、26日に横川村を守る会津兵に攻撃しますが退却、この日は上三依宿に泊まりました。28日に再度、横川攻撃にかかります。 上三依塩原温泉口

男鹿高原駅

■詳細■ 男鹿高原駅

会津藩横川関所跡

男鹿高原駅から徒歩30分
男鹿高原駅を出て会津西街道を北上すると横川の関所(口留番所)跡があります。山王峠の下野側の入口であり、会津と下野の境界にあたります。
8月26日、28日の横川宿の戦いののち、旧幕府勢は退却します。これにより会津西街道の戦線は山王峠を越え、いよいよ会津へといたります。
会津藩横川関所跡

七ヶ岳登山口駅

■詳細■ 七ヶ岳登山口駅

龍福寺

七ヶ岳登山口駅から徒歩10分。
山王峠を越えて北上する新政府軍らが宿泊しました(8月28日)。本堂のふすまには芸州弐番隊の落書きが残されています(※ふすまの見学には要事前連絡)。
龍福寺

会津山村道場駅

■詳細■ 会津山村道場駅

山王茶屋

会津山村道場駅から徒歩15分。
奥会津博物館の敷地内にある古民家レストラン。会津の郷土料理などを楽しめます。
本来は山王峠にありましたが、戊辰戦争では新政府軍の手により焼失しました(8月28日)。元の間取りで再建し、現在の場所に移築されました。江戸時代は人家のない山王峠の休憩場所として活躍しました。
また、同敷地内にある奥会津博物館は民具や道具が24,000点収蔵され、当時の街道沿いの生活や民族を伝えています。
山王茶屋

奥会津博物館

会津山村道場駅から徒歩15分。
山王茶屋と同敷地内にあり、南会津地域の民俗資料を数多く展示しています。また、南山での戊辰戦争に関する資料の展示もあります。当時の街道や、街道の生活の様子を知ることができます。
奥会津博物館

会津田島駅

■詳細■ 会津田島駅

田島陣屋跡

会津田島駅から徒歩5分。
江戸時代、南会津地域は幕府直轄の土地であり、南山御蔵入領と呼ばれていました。中心地の田島村には代官所として田島陣屋が置かれ、統治の中心として機能しました。
戊辰戦争時には拠点の一つとして重要視されました。新政府軍により占拠(8月29日)されましたが、のちに農民により奪還します(9月9日)。
田島陣屋跡

官軍19人の墓(慈恩寺内)

会津田島駅から徒歩5分。
慈恩寺内には農民により打ち取られたとされる新政府軍兵士のお墓があります。
官軍19人の墓(慈恩寺内)

湯野上温泉駅

■詳細■ 湯野上温泉駅

中山の大ケヤキ

湯野上温泉駅から車で20分。
樹齢1000年の巨大なケヤキです。源義家が植えたという伝説とともに、その姿は街道をゆく人々の心を楽しませました。
戊辰戦争では、会津藩士がケヤキを盾に宇都宮藩の指揮官を打ち取ったという逸話が残ります。
八幡のケヤキ

大内宿

湯野上温泉駅から猿游号(バス)で20分。
かやぶき屋根の屋敷が立ち並ぶ大内宿は、古い街並みの姿を今に伝えます。下野街道の宿場町として栄え、参勤交代をはじめ、たくさんの道行く人々が立ち寄った場所です。
大内宿のある大内峠は、会津西街道からの会津城下への最後の砦として激戦地となり(8月30日~)、両軍たくさんの死傷者をだしました。
大内宿

笹沼金吾の墓

大内宿内。
大内峠での戦いで大活躍し、壮絶な最期を遂げた笹沼金吾の墓があります。
笹沼金吾の墓

24人戦士の墓

大内宿から徒歩で30分。
大内峠で亡くなった新政府軍24人のお墓です。街道沿いの人々は敵味方に関係なく戦死者を弔いました。
昭和の時代に大内宿の北側に大内ダムが建設され、現在の場所に移設されました。ダム湖畔の入口から車で2分ほどの場所にあります。
24人戦士の墓

あまや駅

■詳細■ あまや駅

柴五郎の歌碑

あまや駅から徒歩15分。
戊辰の戦乱時、面川の疎開先で柿を売っていた柴五郎の歌碑があります。
後に福島県出身者としては初の大日本帝国陸軍大将を務めた柴五郎は、会津藩の武家の家に生まれました。戊辰時、幼年であった柴五郎は城下を離れ郊外の親戚宅に疎開をしていました。『ある明治人の記録』では、戊辰戦争の壮絶な体験が生々しい言葉でつづられています。
柴五郎の歌碑

西若松駅

西若松駅界隈は会津西街道の道筋にあたり、近辺にはたくさんの史跡があります。
西若松駅西口にあたる材木町は1609年に材木関連の商家が移り住み成立しました。南山御蔵入領で切り出した木材は阿賀川を経由し、会津城下へと運ばれました。
昭和の時代になると西若松駅は会津線と只見線の分岐駅として、物流の拠点となりました。最盛期には駅員は45名を数え、乗降客の9割は東口を利用し、西口は物資の集散が主でした。
西若松駅

長岡藩士殉節の碑(本光寺内)

西若松駅から徒歩10分。
北越戦争ののち、長岡藩家老・河合継之助とともに会津入りした山本帯刀(やまもとたてわき)は、西若松駅南西にあたる飯寺での激戦(9月8日)のすえ、壮絶な最期を遂げます。
飯寺で戦死した長岡藩士44名とともに、地域住民により本光寺内に殉節の碑が建立されました。
長岡藩士殉節の碑(本光寺内)

鶴ヶ城

西若松駅からバス15分。
会津松平家の居城として、新政府軍により苛烈な攻勢を受けました。8月23日より籠城戦を開始し、9月22日に開城・降伏します。戊辰戦争後、明治7年に天守閣が取り壊されますが、昭和40年に再建。天守閣内は郷土博物館になっており、戊辰戦争や会津の歴史に触れることができます。
鶴ヶ城

大町四つ角

西若松駅から徒歩30分。
会津五街道の会津側の起点となった場所です。会津若松の城下町は1590年に入封した蒲生氏郷によって整備されました。大町の四つ角は会津領内の中心点として、各地への距離が測られた場所です。この場所(会津若松市大町)には現在も「会津若松市道路元標」が立っています。
大町四つ角
会津西街道の戊辰戦争年表
1868年 会津西街道 戊辰全体
1月3日 鳥羽伏見の戦いおこる。
4月11日 江戸城無血開城。
4月19日 第一次宇都宮城攻防戦おこる。
4月23日 第二次宇都宮城攻防戦おこる。
閏4月20日 第一次今市の戦いおこる。
5月6日 第二次今市の戦いおこる。 奥羽越列藩同盟の成立。
5月8日 旧幕府勢、藤原宿を本陣とする。
6月25日 大原村の戦いおこる。
6月26日 小原沢の戦いおこる。
7月29日 二本松城の戦い始まる。 北越戦争で、長岡城が陥落。
8月16日 河合継之助が只見で没する。
8月21日 この時期、旧幕府勢、会津西街道沿いの守備隊を城下方面へ北上させる。 母成峠の戦いおこる。
8月22日 16橋水門・戸野口原の戦いおこる。
8月23日 会津若松籠城戦が始まる。 白虎隊が自刃する。
8月24日 新政府軍、中三依宿まで進出する。
8月27日 横川宿の戦いおこる。
8月28日 新政府軍により山王茶屋が焼失する。 芸州弐番隊、糸沢宿の龍福寺に泊まる。
8月29日 新政府軍、田島陣地を占拠する。
8月30日 大内峠での戦い開戦する。
9月2日 旧幕府勢、関山宿まで後退する。
9月4日 新政府軍、本郷まで前進する。大内峠が突破される。
9月9日 農兵隊により田島陣地奪還する。 佐川官兵衛らによる南山でのゲリラ戦が始まる。
9月22日 会津若松城開城、会津藩の降伏。
9月26日 南会津地域(南山御役地)での戦い終わる。

参考書籍

※時代背景・沿線史跡などは、下記の資料を参考にしています。
  • ・下郷町史
  • ・田島町史
  • ・藤原町史
  • ・会津西街道の歴史を歩く(随想舎)
  • ・西若松駅周辺散策マップ
  • ・トランヴェール2017年11月号『会津軍、奥会津で奮闘す!』

AIZUマウントエクスプレス号

AIZUマウントエクスプレス号は下今市駅~会津若松駅間を直通運転しています。 ぜひ、実際にご乗車頂いて、当時の雰囲気を感じてみてください。 発車時刻などこちらからご覧ください。

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